家紋の歴史


【鎌倉時代】

鎌倉幕府の開府後、公家は武士により政権から遠ざけられ主役の座から下ろされると、家紋においても歴史に残る記録もなく、表面にあらわれることがなくなりました。
奥羽の役(1189年)、承久の乱(1221年)、文永、弘安の役(1274・1281年)など戦乱が相次ぎ、武家の家紋は旗や幕に用いられ当時の人々の目にも触れ、また必要性も増してきました。
鎌倉中期になると鎌倉幕府の武士はみな自分の家紋を持ち、全国的に用いられるようになり、鎌倉末期になると家紋は旗のみではなく、兜や鎧などにも付けられました。


【室町時代】

室町時代になると家紋は軍事上ますます必要性が高まっていき、社会的に重要な意味を持つようになりました。
室町後期の戦国時代、形は写実的なものから変化していき現在の家紋に近く紋章的になっていきました。応仁の乱(1467~1469年)以後は旗の他に幟(のぼり)にも用いはじめ、さらに元亀年代(1570~1573年)になると馬標(うまじるし)・指物・柄弦(えつる)・幌(ほろ)などにも家紋を描くようになりました。


【徳川時代】

徳川時代は家紋がもっとも脚光を浴び広まった時代です。
長い戦乱が終わり平和が訪れると家紋も戦時的な使用から平和的な使用に変わりました。この時代には各大名や、その家臣達は通常礼服として裃(かみしも)を着るようになり、その裃の 3箇所、5箇所に家紋を描くので必然的に家紋は紋章化し、形も対称的になりました。また、紋に丸を付けることもこの時代に多くなりました。


【元禄時代】

この時代は平和で華やかで、人々は生活を楽しみ美しい衣装を競い合い驕奢な風習が蔓延しました。
家紋もこの頃になると従来の儀礼的・社交的な意味から装飾用に用いられるようになりました。
庶民においても家紋の乱れはひどく、武家の紋を真似たり自分の好みの紋を作ったりしたので奇抜な紋ができ、紋の数も著しく増加しました。
家紋の乱れた時代ではありましたが、徳川家の葵紋の使用は厳しく禁じられ、使用者は厳罰に処せられました。


【明治時代以降】

明治維新後になると家紋においても変化が見られます。
菊紋は皇室の権威回復とともに光芒を放ち、葵紋は地に落ちました。
明治元年3月28日の「太政官布告第195号」で皇族以外の菊花紋の使用を禁止、さらに翌2年には皇室の紋は16弁八重の表菊と決定されました。
太平洋戦争が終わると民主主義の波が押し寄せ、新憲法ができ、家族制度が廃止され、これにより家の印とされてきた家紋は封建的な遺物という観念から誰も関心を示さなくなりました。

家紋はこのように家族制度の崩壊とともに衰退してしまいましたが、文化的・芸術的資産として改めて見直す必要があると考えている人達も多く出てきています。



このページ内の内容は日本家紋研究会会長:千鹿野茂様著書の「日本家紋総鑑」、家紋デザイナー・沖のりこ様のHP、その他書籍を参考にしております。 「日本家紋総鑑」には更に詳しい内容やが多く掲載されており図書館にて参照可能です。