【愛と義に生きた智将】
大河ドラマ「天地人」で主人公として取り上げられた事から一気に注目を浴びる事となりましたが、 歴史好きの方々には以前から注目されておりました。 特に豊臣秀吉からの引き抜き行為を幾度も断り、 主君である上杉景勝を補佐し続けた点など、忠義に厚い名将として人気がございます。 またそのユニークな兜の前立でも知られており、「愛」の文字を形どった前立を使用しておりました。 愛」の文字の由来には諸説ありますが、有力な説としては上杉謙信が毘沙門天の信仰を表した 「毘」の字を旗印に使用するなど、その当時、 神名や仏像を兜や旗などにあしらう事は広く一般に行われていたことから、 「愛染明王」または「愛宕権現」の信仰を表したという説がございます。 その他にも、生涯において側室を持たなかった点 (妻・お船の方との夫婦仲が大変良かったので側室を持つ必要が無かった。)や、 領民の生活を第一に考え、領民を心から大事にしていたとして「愛民」の精神 (領民のこと考えれば、本来は戦は避けるべきであるが、避けられない戦なら戦時であっても民を思い、民を愛するという精神) に由来すると言われております。 米沢へ転封となった際には、大変な財政難に陥りましたが、 「人こそ組織の財産なり。」と言い、召し放ち等(現代で言うリストラ)を行いませんでした。 領地を1/4にまで減らされ大変厳しい暮らしを余儀なくなれましたが、 兼続は家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、懸命に国造りに取り組みました。 その当時はもちろん、兼続の死後も「米沢藩初代藩主上杉景勝を支えた文武兼備の智将」として 山形県・米沢市をはじめ多くの人々に人気がございます。 |